更新日:2018.07.25  writer:盛林まり絵

人はほかの命をもらって生かされているのだから、感謝することが大切です。

炭焼き職人
佐藤 光夫(さとうみつお)さん
宮城県/七ヶ宿町

今に続く炭焼き技術の基礎は、空海が中国から持ち帰って布教と同時に伝えたといわれ、かつては日本全国に炭焼き職人がいた。木材を定期的に山から伐り出すことで豊かな生態系が維持・管理され、伝統的な農村文化を支える里山が保たれていたという側面ももつ。1950年代以降は石油やガス、電気の普及に伴い木炭生産量も炭焼き職人も激減したが、そんな状況が続くなかで、炭焼き職人として暮らす佐藤光夫さんの自宅を訪ねた。

木炭とは?

木材を蒸し焼きにして炭化させたもの。木材の種類と製法によって種類が区別され、黒炭と白炭に大別される。古くから鍛冶や酒の蒸留、料理、暖房などに使用されてきたが、近代化とともに需要は激減した。しかし最近では、アウトドア料理や炭火焼にこだわる飲食店での使用のほか、多孔質構造による浄水や消臭、吸湿などの効果が注目を集めている。

炭焼き名人と出会って夫婦で移住

宮城県刈田郡七ヶ宿には、かつて炭焼き名人がいたという。1981年に建設されたダムの底に沈んだ3つの集落のうちのひとつ、原に生まれ育った佐藤石太郎さんが、その人である。石太郎さんが73歳で引退を考えたときに周囲がその才能を惜しみ、後継者探しの一環として炭焼きワークショップが開催された。そこに現れたのが、若き日の佐藤光夫さんだった。
当時の佐藤さんは教員や農業見習い、有機野菜の引き売り八百屋などを経て、青森の出版社で働いていた。しかし、元々「人間は自然から離れたところでは生きられない」という想いが強く、結婚を機に山の仕事がしたいと考え、移住先を探していたという。

“師匠と呼べる人を探していたわけではないんですが、石太郎さんの目を見たときに「この人だ!」と思ったんです。この出会いで移住を決めました”

同じ出版社で働いていた妻の円さんも賛成した。そして1994年、名古屋出身の佐藤さんと仙台出身の円さんが、七ヶ宿での暮らしをスタートさせた。佐藤さんが30歳のときである。佐藤さんは春から秋まで森林組合で働き、冬は石太郎さんとともに炭を焼いた。現金収入がなくなる冬は、円さんがスキー場で働いた。一通り炭焼きについて習った後は、一年も経たずに自分で炭を焼くようになったそうだ。
若い頃に炭焼きをしていた地元の人に夫婦で呼ばれ、「俺達があんなに頑張っても食えなかったんだから甘いもんじゃないんだ。やめろ」と諭されることもあったという。「私達は能天気なので、来て間もない私達のことを親身に考えてくれるなんて幸せだと有り難く感じはしても、辞める気はありませんでした」と円さんは笑う。そして移住して8年後、佐藤さんは専業の炭焼きになった。

移住当初は現在より山奥に住んでおり、マイナス18度前後になる日が年に数日はあったという。真冬に凍った水道を何とかしようと水道管を炭で暖めたら蚊帳に引火し、熱風で窓ガラスまで割れてしまったこともあったと夫婦で笑う
白炭製造販売「七ヶ宿の白炭」と菓子工房「すみやのくらし」の看板。お互いの事業については夫妻でよく話し合うそうだ。佐藤さんの白炭も、安心・安全な材料にこだわった円さんのお菓子も、インターネットで購入できる

炭焼きをしながら、森を守る活動も行う

木炭には黒炭と白炭の2種類があり、佐藤さんがつくるのは、石太郎さんから学んだ白炭である。どちらも炭窯に木材を入れて蒸し焼きにするが、黒炭は700度前後で焼いて密閉して消火するのに対し、白炭は徐々に空気を入れて1000度前後の高温で焼き、窯の外で消し粉をかけて消火する。黒炭は比較的やわらかく、火がおこしやすいが火持ちは悪い。白炭は硬く、火がおこしにくいが火持ちはいいという特徴がある。

“もし極端に相場が低い黒ずみだったら、続けられなかったかもしれません”

材料となる木は、炭焼きに向いた木が沢山生えている山を探し、2、3年以内に切るという条件で持ち主から土地でなく木のみを購入する。「昔は団体で大地主さんから山を買い、10人いたら10等分していたそうです。それを山分けというんです。そういう習慣についても、石太郎さんに教わりました」
最も有名な白炭は恐らく備長炭だが、備長炭の材料となるウバメガシが七ヶ宿には生えていない。そのため、佐藤さんは主にナラ(コナラ、ミズナラ)を焼いている。珍しい種類としてはホオノキの白炭もつくっており、踵の角質とりに使えるそうだ。
また、酸性雨による樹木への被害を減らそうと「水守人の会」を発足させ、森に炭をまく活動も行っている。「七ヶ宿は水源の町で、水は森がないとできません。ごまめの歯ぎしりのようなものですけど、炭をまくことで木が元気に育ち、酸性土壌が中和されて、水がきれいになるんです」

原発事故を機に、炭入りのお菓子づくりを開始

円さんはパウダー状に加工した炭を使ったお菓子をつくり、販売している。始めたきっかけは2011年の東日本大震災の原発事故だったという。炭は放射性物質のデトックスに効果があるという話を聞いて家族で食べ始めたが、子どもにとっては食べにくい。楽しい気分で食べられるようにと、お菓子に混ぜることにしたそうだ。「当時はどうしていいかわからなくて不安で、藁にもすがる思いでした。私にも家族を守れることがあるって思うことが救いだったんです」と円さん。「できることがあるっていうのが希望だったんです」と佐藤さんも言葉を添える。
ちょうどその頃、七ヶ宿で開催されていた『地場産品の一品開発プロジェクト事業』の2011年コンテストに炭クッキーを出品したところ、最優秀賞を受賞。これを契機に、2013年から菓子工房を開業した。現在は円さんと友人と3人で製造・販売を行い、今では七ヶ宿ブランドにも認定されている。
炭はもちろん、小麦や油などの材料も国産、オーガニックにこだわった円さんのお菓子は、誰にとっても安心で安全なだけでなく、アレルギー体質、化学物質過敏症など食に問題をもつ人からは特に好まれているそうだ。「普通のお菓子が食べられない方、本当に必要だから欲しいという方に届けられれば嬉しい」と円さんは語る。今後は普段の暮らしも大事にしながら、お菓子の製造・販売を暮らしに組み込む形で充実させていくことが課題だという。

炭クッキーをつくり始めた頃は、家族で食べるだけでなく、周囲の人にも分けていた。炭のパウダーを福島で配ったこともあるという。「うちだけじゃなく、本当に必要なところに持っていったほうがいいと思った」と円さんは語る
地元の方から、山菜採りに誘ってもらったり、野菜の種蒔きの時期を教えてもらったり、様々なことを学んだそうだ。それでも円さんは「山の暮らしの知恵は今でも覚えきれていません。もっと勉強しなきゃいけなかった」という

人生において大切なのは感謝すること

佐藤夫妻は生業をもち、一男一女に恵まれ、自ら伐採した地元産木材を100%使用した半セルフビルドの自宅に住み、合成洗剤でなく石鹸の洗剤やシャンプーを使い、自給自足を目指して野菜を育て、米のとぎ汁からおこした乳酸菌を活用してジュースやヨールグトをつくる、といった暮らしを楽しんでいる。夫妻の話からは、地元の人に可愛がられてきた様子も窺える。
かつては都会から山に移住する人は強い主義主張のある人が多く、地元の人とぶつかることもあったそうだ。だが、佐藤夫妻には強い主義主張がなく、本当に地元での暮らしを教わりたかったから学ぶ姿勢でいただけだと語る。「目が合ったら挨拶だけは必ずするように心がけていました」と円さん。車に乗っているときでも、こちらを見ている人がいればとにかく頭を下げていたそうだ。地元の人からひと冬でいなくなるだろうと思われていた夫婦は、今ではしっかりと七ヶ宿に根を張っている。
佐藤さんは中学生の頃から「なぜ人は争ってばかりで平和に暮らせないのだろう」と考えていたという。大自然にある佐藤家の暮らしは、平和な理想郷を実現したように見える。人生において大切にしていることは? という問いの答えに、佐藤さんの生き様が現れていた。

“感謝すること。人はほかの命をもらって生かされているのだから、感謝することが大切です”

佐藤家の大黒柱は、山から木材を馬で運ぶ馬搬(ばはん)を行う馬方(うまかた)さんが運んだもの。当時は町内に二人いた馬方さんも辞めてしまい、環境に優しい馬搬の技術も機械化により日本中から失われつつある
佐藤さんの炭窯。直しながら使えば何十年でも使えるそうだ。夫妻は「石太郎さんから教えてもらったことを、博物館にあるような技術や資料としてでなく、今も続く生業のひとつとして伝えていきたい」と願っている

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