更新日:2017.12.06  writer:盛林まり絵

400年も形を変えずに残って来たスボ手牡丹の歴史も、うちが作るのをやめたら途絶えてしまう。

花火職人
筒井 良太(つついりょうた)さん
福岡県/みやま市

1543年に火縄銃が日本に伝来して以後、国内でも鉄砲と火薬の生産が盛んになったが、江戸幕府が開かれ太平の世が訪れると、火薬を利用した様々な花火の開発が進められた。そのひとつが、線香花火だ。関西地方では藁(通称ワラスボ)の先端に火薬をつけた『スボ手牡丹』、関東地方では紙で火薬を包む『長手牡丹』が親しまれ、やがて長手タイプが全国に広まった。現在、国内で唯一、2種の線香花火を製造している筒井時正玩具花火製造所を訪れた。

線香花火とは?

こよりに火薬をひねりこんだ日本独自の手持ち花火。江戸時代に香炉や火鉢に線香のように立てて遊んだことから、『線香花火』と名付けられたといわれている。諸説あるが関西地方が発祥とされ、かつては同じ線香花火でも関西と関東で形も色も違うものが流通していた。繊細で優美な様は日本の伝統美として愛され、夏の季語になるほど日本の暮らしに馴染んでいる。

国産の線香花火がなくなるときは、すべての国産花火がなくなるとき

福岡県みやま市高田町は、7軒の花火製造業者が集まる九州有数の花火産地であり、花火の里ともいわれている。そのなかに、1929年創業の筒井時正玩具花火製造所がある。ネズミ花火の考案者として知られる初代・時正さんを祖父にもつ、1973年生まれの筒井良太さんが三代目だ。高校卒業後は県外に飛び出して他業種で働き、21歳のときに妻を連れて実家に戻り、花火職人の修行を始めた。
その当時は、1970年代半ばに登場した中国産の安価な線香花火が約20年で国産品を駆逐し、国産線香花火の製造所は次々と廃業に追い込まれた末に、最後の一軒が福岡県八女市に残るのみという危機的な状況を迎えていた。
最後の一軒が筒井さんの親戚が経営する製造所だったため、実家に戻ったばかりの筒井さんはそちらに修行に出ることになった。3年間の修行後、製造所の廃業に伴い、国産線香花火の製造技術や機械、原料などを引き継いだ。線香花火には関東から全国に広まったカラフルな紙で火薬を包んだ長手と、その原型となる藁の先端に火薬をつけた関西風のスボ手があり、現在2種をつくっている製造所は、筒井時正玩具花火製造所のみである。
「日本で誰もが知っている花火といえば線香花火です。国産の線香花火がなくなるときには、すべての花火もなくなると思っているんです」

“だからこそ、国産の線香花火を後世に繋げる必要があるんです”

夫婦一緒に奮闘した末にオリジナル線香花火が完成

修業先から戻った後、完成させるまでに最も苦労したのが火薬の配合率だったという。花火の火薬配合率は秘伝とされ配合率を記した資料がなく、教えてもらうことができなかったのだ。筒井さんは数年に亘って研究を重ね、試行錯誤の末に現在の形に辿り着いた。
研究中は毎日真っ黒になって「わからん、わからん」と首をひねりながら朝方に帰宅する筒井さんを見て、妻の今日子さんも心配する日々が続いた。そんなある日、実際に線香花火に火をつけて見せてもらったところ、その美しさに驚き、感動したという。「子どもの頃からよく遊んでいた線香花火と全然違ったんです。こんないいもの見たことないって思いました」と今日子さん。
筒井さんは研究を続けるうちに自社の名前でオリジナルの線香花火を出したいという想いが膨らんでおり、今日子さんが痛く感動したことをきっかけに、若い夫婦二人は新たな船出に乗り出すことになった。
今日子さんは補助金事業の認定に向けた取り組みや、地域の雇用促進プロジェクトへの参加を通して、次第にデザインの重要性に着目。今日子さん主導で夫婦一緒にデザイン講習会に通い、デザイナーとの出会いを経て、二人三脚で製品開発を進めた。そして2000年、ついに筒井時正玩具花火製造所オリジナルの線香花火が完成したのである。
同時に、ほかの製品もコンセプトからパッケージまでトータルデザインを施し、ウェブサイトの立ち上げや社屋のリニューアルなども少しずつ進めた結果、売り上げは次第に伸びていった。現在は注文に生産が追いつかない状態が続いている。

技術面は筒井良太さん、デザイン面は今日子さんが担当。良いものを完成させたいという想いからぶつかることも多いが、試行錯誤して原因を探り、新たな工夫を見出し、二人で乗り越えてきた。家庭でも仕事でも良きパートナーだ
スタッフのアイデアから新商品が生まれることもある。写真奥のくじら、龍の形をした花火は、スタッフの意見から誕生した「どうぶつはなびシリーズ」だ。郷土玩具をテーマにした花火で、子ども達に大人気である
地元産の材料にこだわり、今日子さんが編み出した今までにないより方で完成させた新感覚の線香花火。地元産ハゼ蝋でできた和蝋燭、九州産の山桜でつくったロウソク立てもセットした『花々』
線香花火はワインと同じ様に熟成するという。寝かせれば寝かせるほど数種の火薬材料が馴染んで熟成し、火花が安定するそうだ。線香花火以外の花火は、保管はできるが火花が安定することはない

うちがスボ手牡丹の製造をやめると、400年の歴史が途絶えてしまう

関東風の長手牡丹は、1本当り0.08gの火薬をのせた和紙を親指と人差し指でよっていく手作業でつくられている。よって作るほかの製品も含め、製造しているのは近隣地域に住む約20名の『より手さん』だ。筒井さんが届ける紙と火薬を、内職で仕上げてくれるのだ。毎年より手を募集しているが、製品によって独自のより方が必要なため、修得できず脱落する人も少なくない。手先の器用さだけでなく根気も必要なため、長く続くのは50〜60代の方が多いという。国産線香花火の高い品質は、こうした地域の人々にも支えられている。
原料に地元地域のものを使用した製品も販売しているが、線香花火の黒色火薬の原料となるのは、松煙、硝石、硫黄の3つである。関西風のスボ手牡丹の場合、これに膠(にかわ)と松ヤニが加わる。これらの原料の調達は、段々と難しくなってきているという。とくに膠の調達は一時期、窮地に陥った。
5年程前に三千本膠という純国産品を発注しようとしたところ、国内の製造業者が消滅していたのである。そのときは、今日子さんがインターネットを駆使して膠と繋がる事業を見つけ出し、それをヒントに膠の研究チーム、かつての製造業者などと連絡をとって交渉し、新たな取引先を開拓して窮地を乗り切ったそうだ。「400年も形を変えずに残って来たスボ手牡丹の歴史も、うちが作るのをやめたら途絶えてしまう。使命感にかられてしまいます」と今日子さんは語る。
同じ様に、スボ手牡丹に使う藁も調達できなくなったため、ついに今年から米づくりを始めることにしたそうだ。稲刈りを終えた田で藁を干し、乾燥させて手作業で芯を抜くところから始めるという。二人は現状を憂いつつ、諦めずに立ち向かう気構えで挑んでいる。

“松煙も同じです。もう日本で2社ぐらいしか作っておらず、後継者がいらっしゃらないんです。もしかしたら将来的にうちで作らなくてはならなくなるのかも、という覚悟をもたねばと思っています”

線香花火の国産と中国産との違いは火を点けてみればわかるという。火花が大きく美しく飛び、長持ちするのが国産の特徴だ。消えるまでに変化する燃え方には4つの名前がつけられており、人の一生になぞらえられることもある
点火して火の玉が大きくなっていく『蕾』、少しずつ火花が出始める『牡丹』、力強い火花が飛び散る『松葉』、細い火花が尾をひいて落ちる『散り菊』という4つの名が付けられている。短時間で咲いて散る潔さ、儚さは日本人好みだ

日本の伝統を次世代へ繋ぐため、もっと花火に親しんでもらいたい

ぶどう畑に囲まれた筒井時正玩具花火製造所の敷地内には、室内で花火が楽しめる国内初のギャラリーと、離れが設けられており、自社製品を含めた様々な花火の販売、花火づくり体験のワークショップなどを行っている。
時代とともに、花火は危険だからと使用禁止の場所が増え、花火で遊ぶ経験が減ってしまうことを危ぶみ、もっと花火に親しんでもらいたいとの願いを込めてつくったスペースだ。
日本古来の伝統を次世代へ繋ぐため、様々な試みを続ける筒井時正玩具花火製造所。その気概に満ちた挑戦は続く。

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