更新日:2018.01.17  writer:安田理央

伝統工芸品が古いだけのものだというイメージを変えていきたい。

江戸簾職人
田中 耕太朗(たなかこうたろう)さん
東京都/台東区

簾(すだれ)は、竹や葦などを編んだもので、室内の仕切りや日よけなどの目的で古くから使われてきた。清少納言の『枕草子』にも記載が見られることから、平安時代以前からの存在も確認されている。中でも江戸時代に、江戸で作られた簾は『江戸簾』と呼ばれ、江戸城や武家屋敷、神社仏閣、そして商家などで使われていた。現在、唯一江戸簾の伝統を引き継いでいる田中製簾所の五代目、田中耕太朗さんに話を伺った。

江戸簾とは?

江戸簾はその名の通り、江戸時代より江戸で作られている簾の名称。竹、萩、ヨシなどの天然素材を原材料とし、江戸時代に確立された伝統的な技法に基づいて手作業でひとつひとつ編み上げられる。東京都伝統工芸品に指定され、江戸簾の東京都伝統工芸士として知事認定されているのは田中製簾所五代目・田中耕太朗さんと先代の義弘さんの二名のみである。

130年以上続く江戸簾の老舗を継いで

田中製簾所は創業130年以上という江戸簾の老舗。明治の初期に本所若宮町で初代である田中仁助が簾の製造を始めたことから、その歴史は始まっている。明治38年に浅草へ移転。大正元年には、浅草駅から徒歩10分ほどの現在の場所に工房をかまえた。
現在、田中製簾所を引き継いでいる田中耕太朗さんは五代目。1963年生まれの耕太朗さんが簾職人となったのは二十代半ばだった。大学では数学を学び、その後も助手として大学に残っていた。「子供の頃から仕事は手伝っていたけど、家業を継ぐということは全く考えていなかったね。子供の目から見ると、ずっと同じ作業をやっていて、つまらないな、と思ったんだ。実際にやってみると全然違ったんだけどね」そんな耕太朗さんが簾職人の道を選んだのは、大学での様々な現実を目にしたことだった。

“学問も色々なしがらみがあって、自分の思ったようにはできないなと感じたんだ。でも、実家の仕事なら、一から十まで全部自分でやれるかもしれない。そこに魅力を感じたんだ”

田中製簾所の跡を継ぎたい、そう告げると先代である父親は、いきなり耕太朗さんに経営権まで渡してしまったという。「父親が『あとはおれに給料くれればいいから』っていうんだよ(笑)。経営なんてやったことないからどうしようかと悩んだんだけど、あとにして思えば、そこまで考えることができてよかったと思う。何もわからないまま仕事だけしていたら、面白くなくて止めていたかもしれない」

江戸時代から変わらぬ製作工程

江戸簾の製作工程は、竹を割って適度な大きさに揃える素材作りと、それを糸で編んでいく作業の二つに分けられる。編む作業は、投げ玉という木製の器具を交互に投げていくことによって、数百本に及ぶ竹片を一本ずつ編み上げていく。耕太朗さんはリズミカルに投げ玉を操り、その作業をしている様は、まるで楽器を演奏しているかのようだ。製作工程の基本は江戸時代から変わっていない。

糸を結んだ投げ玉を前後に行き交わせることで、竹片を編んでいく。簡単そうに見えるが竹をまっすぐ揃えて隙間なく編んでいくには熟練した技術が必要となる。投げ玉は先代から受け継いだもので、中には100年以上も使っているものもあるとか
何十本もの竹片一つひとつを糸で丁寧に編み上げていく。気の遠くなるような作業だが、耕太朗さんの指は、正確なリズムを刻みながら作業を進める。さっきまでバラバラだった竹片があっという間に簾へと変貌していく。その淀みのない動きに、思わず見惚れてしまう

もちろん、こうした技術は先代から学んだが、手取り足取り教えてもらったわけではない。「僕がこの仕事を始めた時には、工房には祖父、父、そしてベテランの職人がいたんですが、彼らの作業を見よう見まねでやっていったんです。違っていれば『おかしいだろ』『それは違うだろ』といわれる。そうやって覚えていきました。そのうちに、もうちょっとこうやった方がやりやすいなど、自分なりの方法を編み出していく。こうやって押さえるんだよって教えられたとしても、手の形も力の入れ方も、みんな違うんだから、自分に合うやり方を見つけていかないといけないんですよ。最終的にちゃんとできてればいいんじゃないかな」
現在、田中製簾所では、基本的にオーダーメイド受注となっている。住宅の規格が多様化してきたため、サイズを統一して製作することが不合理になってきたのだ。「前は窓のサイズもだいたい同じだったからよかったんだけど、今はバラバラだからね。15年くらい前から受注製作にしたんだ」

“この簾がどんな場所でどんな風に使われるのかを常に考えながらつくっていくと、作業も単調では済まないんだよ”

作業のひとつひとつに意味がある。ここに耕太朗さんが手作業にこだわる理由があるのだ。

国内外から注目される江戸簾

一見、いかにも伝統工芸の職人といった無骨な印象を受ける耕太朗さんだが、作業をするその腕にはApple Watchが巻かれ、工房の隅にはGoogle Homeが置かれていた。どちらも最先端のデジタルガジェットだ。「これ、作業しながら使うにはいいんだよ。意外に職人向けなんじゃないかな(笑)」
耕太朗さんは、YouTubeで作業工程の動画を公開したり、伝統工芸士 江戸簾マイスターとしてTwitterで活動を発信するなど、ネットやSNSも活用している。また、様々なイベントやワークショップへの参加にも積極的だ。「そういったことを、この業界は今までやらなすぎたと思う。色々なところへ出ていって、色々な人と会って、色んな場面で使ってもらって、自分で情報を発信していかないと、何も返ってこないんだよ。まずは興味を持ってもらわないと。みんな伝統工芸品は、古いもので、自分には関係ないってイメージを持ちすぎてる。そこを変えていかないと、この先がなくなる」
耕太朗さんがアップしているYouTube動画には、海外からのコメントが多い。この6月からは、ボストンの工芸博物館での展示も決まったという。海外でも田中製簾所の江戸簾は高く評価されているのだ。また近年では、文字や絵を入れてタペストリー風に使うなど、アートの面から江戸簾を見直そうという動きも活発だ。リニューアルされた東京メトロ稲荷町駅では、耕太朗さんの手による“いなりちょう”の文字が入れられた江戸簾がディスプレイされている。「日よけとか目隠しという役割でも、今はアルミブラインドが使われているけれど、アルミはそれ自体が熱を持つでしょう?その点、簾は竹だから、熱くなりにくい。簾は、見た目以上に機能的に優れているんですよ」
長く使い続けられるのも簾の魅力だ。手入れをしたり、編み直すなどの修理をすれば何十年と使うことができる。田中製簾所では簾の修理も受け付けている。「料金はだいたい売値の半額くらいかな。実はそれだとウチの儲けはないんだけど、修理は昔から行っていることだからね」
簾の修理は専用の機械を使用することが多いが、これは大正時代につくられたものだという。編むのに使用する投げ玉も代々受け継がれ、80年から100年と使われているそうだ。古いものと新しいものが混在しているこの工房で、江戸簾は今日もつくり続けられている。

矢羽根柄の飾りが入った簾。竹片の形を変えることで、模様の入った簾を作ることができるのだ。編み上げる前の段階で、竹片を加工しておかなければならないので、事前に入念な計算と設計が必要となる
東京メトロに依頼されて“いなりちやう”(稲荷町)の文字を抜いた江戸簾を制作。これはその元となる型紙。これに合わせて竹片を一本一本加工していくのだ。文字のように細かい模様を抜くには、熟練の技術が必要となってくる。この簾は現在、稲荷町駅で見ることができる

伝統工芸の世界をもっと知ってもらいたい

現在、昔ながらの手作業で江戸簾をつくっている職人は、耕太朗さんと先代の義弘さんの二人だけだという。「簾職人は全国的にも減っているし、こういう手作業でとなると、もうほとんどいない。でも伝統工芸の世界に新しい人が入ってこないのは、見る機会も無いし、触れる機会もないから。もっと興味をもってもらいたいと思って、地方でのイベントにも行くし、毎年、インターンの学生さんも受け入れている」

“そりゃあ、若い人に来てもらうのが理想だけど、本当にやる気があるならば、年齢がいっている人でも教えたいと思っているよ”

長い歴史を持ち、国内外からも注目されている江戸簾の技術を絶やしてしまうのは、あまりにもったいなさすぎる。新たな後継者の登場を待っているのは、耕太朗さんだけではないだろう。

人の背丈ほどの簾だと、一日で一枚半から二枚ほど編めるのだという。仕事は、明るくなると始めて、暗くなると終わりにするという原始的なサイクル。蛍光灯の明かりよりも、自然光の下で作業した方がやりやすいということで、そのサイクルになったのだという
簾を編み直すのは機械を使うことが多い。足でペダルを踏むと、数十のアームが一斉に動いて、糸を編んでいく。工房に三台ある機械は、いずれも大正時代に作られたものを修理しながら使っている。現在、この機械を製作している会社はないので、大切に使っている
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