更新日:2018.01.24  writer:盛林まり絵

これからお客さんになってくれる若い世代が、喜ぶものをつくらなければあかん。

備前焼陶芸家
猪俣 政昭(いのまたまさあき)さん
岡山県/瀬戸内市

古墳時代に朝鮮半島から伝わった須恵器(すえき)が変化を遂げ、鎌倉時代に確立された備前焼。室町時代から江戸時代にかけては、茶褐色の素朴な味わいが茶人に好まれ、茶道の発展とともに隆盛し、茶器の名品を多数生み出した。長い歴史をもつ備前焼だが、その伝統にとらわれず、現代のニーズを見据えた作品を世に送り出しているのが、伝統工芸士の猪俣政昭さんである。現代の名陶芸家・猪俣さんに会うため、岡山県瀬戸内市邑久町の西蔵坊窯を訪ねた。

備前焼とは?

岡山県備前市の周辺を産地とする陶器。日本を代表する窯を総称する六古窯(ろくこよう)のひとつに数えられ、約1000年続く歴史をもつ。釉薬を使用せず1200度前後の高温で長時間焼成されるのが特徴で、素地を生かした褐色の器肌が主流で、窯の温度や作品の詰め方により変化に富んだ模様が現れる。1982年に国の伝統的工芸品に指定されている。

あらゆる場に出かけて地道に販路を開拓

1948年生まれの猪俣さんは生まれも育ちも大阪で、陶芸とは無縁の一般家庭で育った。元々焼き物が好きで陶芸家への憧れはあったが、縁もゆかりもない世界でどのように職人になるのかもわからず、高校卒業後は就職して会社員として働いていた。しかし、友人が陶芸家に弟子入りしたことをきっかけに、陶芸への想いが募って2年間勤めた会社を退職。21歳のときに愛知県窯業訓練校に入学し、卒業後は大谷焼の窯元に弟子入りした。
ところが、窯元の雰囲気が合わなかったことと、修行中は無給という伝統工芸の慣習に納得がいかず、修業先を飛び出してしまう。その後、友人の勧めで入った備前焼の窯元・陶正園は修行中も給料が出たこともあり、腰を据えて修行に励んだ。当時は陶器が高値で売れた時代で、芸術でなく商売としての観点から早く独立しようと必死で学び、3年後に27歳で独立を果たした。「最初は大変だったよ。窯焚きもできなかったし販売ルートもなかったし。でも当時は怖いもんなしやったね」
猪俣さんの西蔵坊窯で初めてつくった作品は新聞で紹介され、翌年には岡山県美術展で初入選。工芸ブームに乗って作品は比較的高値で取り引きされたが、無名の若手の作品を繰り返し買ってくれる人は少なく、次第に売れ行きは鈍っていった。
そこで猪俣さんは持ち前のバイタリティーを発揮し、百貨店から小さなギャラリーまであらゆるところに出かけて地道に販路を開拓。ご縁が広がり、現在まで続いているという。作品が売れない陶芸家も多いなか、猪俣さんの作品は今も一定量を売り上げている。「僕みたいな売り方をしてるのは、備前焼をやってる人のなかでも珍しいと思う。初めてデパートの物産展に出たときには『猿回しの猿みたいなことして』っていわれたけど、何が悪いねんって思ってな」

“売れる所があるならやってみて、あかんかったら止めればいいんやから”

一つとして同じものはできない“土と炎の芸術”

備前焼と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、レンガでつくられた煙突がある登り窯であろう。猪俣さんの西蔵坊窯にも、一度に3トンもの作品が焼ける立派な登り窯がある。窯を焚くときには棚に隙き間がないよう作品を詰め、作品同士が触れないよう藁を巻いたり、燃料となる薪を入れたりして、1,200度から1,300度もの高温で13日間かけて作品を焼き締めていくという。「備前は釉薬をかけない焼き締めもんだから、どれだけ高温で引っ張るかによって肌色が変わるんです」
備前焼は“土と炎の芸術”といわれ、窯内の置く場所や燃料となる木の種類、空気の流れなどにより、『窯変(ようへん)』と呼ばれる千差万別の模様が作品に現れる。焼成中に薪の灰が作品に付いて胡麻を散らした様な模様ができる『胡麻(ごま)』、藁の成分と粘土に含まれる鉄分が反応して緋色の線が現れる『緋襷(ひだすき)』など、窯変には様々な模様があり、一つとして同じものはできない。
3トン分の作品がたまれば窯を焚くが、今はなかなかそれだけの量がたまらない。以前は年3、4回焚いていたのが、現在は3年に一回程に減ってしまったそうだ。「登り窯は効率はいいけど温度差が大きいから仕上がりの差も大きい。要するに、登り窯はロマンなんです。備前はロマンという感覚にうまく乗ってきたから、変える必要がなかったんですよ。芸術作品のように捉えられてきたから。今はそれが裏目に出て、ほかの焼き物と比べると需要が減ってしまったんやと思う」

「投げても割れない」といわれるほど、ほかの焼き物と比較すると硬くて丈夫。普通の食器用洗剤で洗うことができ、電子レンジでも食洗機でも使用できる優れものだ。芸術的な茶器ばかりでなく、皿や椀などの日用品も人気がある。
斜面に焼成室が連なった連房式の窯『登り窯』の煙突。『電気窯』『ガス窯』だと正確な温度管理はできるが、一度に焼ける量は約30〜50キロと少ない。登り窯を焚くときには同業者で声をかけあい、互いの作品を焼くこともあるそうだ。

プロだからこそ売れるものをつくるべき

長年の経験から、備前焼が現代のニーズに合っていないことに危機感を覚えている猪俣さん。プロだからこそ支持されるもの、売れるものをつくらなければならないという考えのもと、今は売れる商品と伝統工芸との乖離が甚だしいと嘆く。「『女子どもはこんないいものがわからないのか』と馬鹿にする作家もいるけど、本来、食器を買いに来るのはほとんど女の人。可愛い、きれいと感じて手にとってもらえなかったら成り立たないんや」
制作の際は“傷をいれないこと”“同じものを正確につくること”に心を砕くとともに、“売れるかどうか”を重視する。備前焼を好む60代以上の世代は目利きが確かなため、若い作家は彼らの審美眼に叶うものをつくろうとするが、それではいけないと若手作家に伝えているそうだ。「年配の方は既に沢山の良い作品を所有しているから、今以上に買ってくれることは少ない。むしろ処分していこうと考えているぐらい」

“だから、これからお客さんになってくれる若い世代が喜ぶものをつくらなければあかん、といつも話すんです”

現在取り組んでいる新作は、表面に細かな断裂が入った『黒裂紋(くろれつもん)』と、青の深みや窯変の出方にこだわった『青備前』。どちらも一般的な備前焼の印象を裏切る作品で、現代的なニーズと伝統工芸との乖離を埋めようとする想いが感じられる意欲作である。『青備前』は「備前といえば備前、備前じゃないといえば備前じゃない」と説明する、既存のカテゴリーに収まりきらない作品だ。既に販売を開始した『黒裂紋』は若い世代への売れ行きも好調である。焼き物の世界に入って約50年。現在も新たな挑戦を楽しんでいる。

猪俣さんの自信作『黒裂紋』。高級感のある表面のざらついた手触りとは裏腹に、飲み口は薄く繊細に仕上げられている。使い込むほど味わいが増していくのも魅力である。一つひとつ手づくりのため、量産はできない。
窯変で青色を出しているのが猪俣さんオリジナルの『青備前』。今まで青備前といわれていたものは灰色がかった青色が普通だったが、猪俣さんのつくる青備前はより青が深く鮮やかで、北欧食器を彷彿とさせるような青色である。

死ぬまで現役で真剣勝負をしたい

技術は急速に進歩しており、登り窯でなく電気窯でも良いものはできる。備前焼の伝統技術の継承が叫ばれるが、作品や制作データが残っていれば数世代後でも復元できるはずだと猪俣さんは楽観視している。「何事もこうでなければいけない、なんてことはないやろう。先のことなんてわからないから、必死に継承する必要はないと思う」
2018年に70歳を迎えるが、今が一番楽しいという。遊びに出かけるより、コツコツと制作している方が楽しいそうだ。「先が短いからこれから発展することはないやろうけど、逆に落ちることもない。だから好きなようにできる。買ってくれるお客さんは大事にしてね」

“仕事はもちろん真剣勝負です。現役じゃないと真剣勝負はできないから、死ぬまでやりたいね”

焼成後の作品を丁寧に磨いて仕上げる。備前焼には細かな凹凸、気孔があるため、「ビールを注ぐと、きめ細かな泡がたって美味しい」「水を良質な状態で長時間保つことができ、花が長持ちする」など様々なメリットがあるという
湯呑みの底部をあっという間に仕上げていく猪俣さん。時間がかかると手の熱が粘土に移ってしまうため、手早くやる必要があるそうだ。底には猪俣さんの“猪”のけものへんをアレンジしたもの窯印を入れている。

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