更新日:2018.06.04  writer:安田理央

伝統も風習も、無くなってしまってからでは遅いんです。

アイヌ伝統工芸作家
貝澤 守(かいざわまもる)さん
優秀工芸師
貝澤 雪子(かいざわゆきこ)さん
北海道/平取町

アイヌの伝統が色濃く残る沙流郡平取町の二風谷(にぶたに)地区。二風谷は、アイヌ語で木の生い茂るところを意味するニプタイが地名の由来だ。アイヌの工芸品は、その独特な魅力を持った美しさにより、古くから注目され、全国の人々に愛されてきたが、二風谷はとりわけ名工を輩出している地域として知られている。アイヌ工芸品店が立ち並ぶエリアを『匠の道』と名付けている二風谷で、アイヌの伝統を受け継ぐ工芸作家・貝澤守さん、貝澤雪子さんを訪ねた。

アイヌ伝統工芸とは?

古代から伝えられてきたアイヌの伝統的な工芸品の中でも、2013年に伝統工芸品として指定された『二風谷イタ』と『二風谷アットゥシ』はその代表的な存在。前者はアイヌ文様が彫り込まれた木製(主にクルミやカツラ)の盆、後者はオヒョウの内皮から作られた糸による織物で、どちらも伝統的な工程によって製作されている。

観光ブームによって発展した二風谷の工芸

沙流(さる)川流域の二風谷はもともと工芸の盛んな地域であったが、国内旅行が流行した昭和40年代から50年代にかけては観光地としても注目され、アイヌ工芸品を販売する店が立ち並び、大いに賑わった。二風谷の中央を通る国道237号は、道央と道東、道北を結ぶ重要な道路だったため、多くの観光客がこの地域に立ち寄り、土産として工芸品を買い求めたのである。「その頃は、職人さんも売り子さんもたくさんいてね。もう作れば作るだけ売れたという時代でした。うちにも若いお弟子さんがいっぱいいましたよ」。貝澤守さんは、そんな少年時代を回願する。
守さんは工芸作家である父親の作業する姿を見て育ち、幼い頃から木彫りの技術を教わっていた。しかし日本人の興味が海外旅行へと向き、北海道旅行の人気が落ち着くと、二風谷の観光需要も衰退してしまう。「父親が早くに亡くなってしまったこともあって、高校卒業後は札幌で電気関係の仕事に就いたんですが、2年ほどでこちらに戻ってきました。やっぱり都会よりも、故郷の方がよかったんですね。隣に住んでいる人の名前もわからないという都会の環境に馴染めなかったんです。地元の人の暖かさが恋しくなった」
それから亡き父親の跡を継いで工芸の道を歩みはじめた。2010年には国土緑化推進機構のコンクール・森の伝承・文化部門で『森の名手・名人』に道内でただ一人(当時)選ばれる。また2013年に経済産業省の伝統工芸品として「二風谷イタ」(盆)と「二風谷アットゥシ」(樹皮の反物)が指定されたことにより、二風谷の工芸品に改めて関心が集まり、イタ制作の名手である守さんも注目されている。

二風谷イタとは、沙流川流域に古くから伝わる木製の平たいお盆のこと。アイヌ文様が表面全体に彫り込まれているのが特色であり、魅力となっている。カツラやクルミの木で作られ、一枚彫り上げるのに一日から二日かかり、最初から最後まで一人で仕上げるのがアイヌ工芸の伝統だ
二風谷工芸館の貝澤守さんの作品が展示されたコーナー。大判の見事な二風谷イタだけではなく、木皿や動物の彫像などの作品も並んでいる。ここでは他の工芸作家たちの作品も鑑賞したり購入できる

何百年も変わらなぬ手法を受け継ぐアットゥシ織り

守さんの母である貝澤雪子さんが、二風谷アットゥシ織りを始めたのは、19歳の頃。貝澤家に嫁いできて、姑から織り方を教わった。「やってみたら面白くてどんどん織らせてもらったんです。教わったのはシナノキを糸にして織るシナ織りだったんですが、オヒョウを使うアットゥシ織りは自分で試行錯誤しながら覚えていったんです」
アットゥシ織りは、ニレ科の落葉高木であるオヒョウを山で切り倒すことから始まる。その皮を剥ぎ、数日間干して水分を飛ばした後に、釜で数時間茹でたものを沢で洗い、それを細かく裂き、撚っていく。そうして糸ができてはじめて織ることができるのだ。「アットゥシ織りのうち、糸を作るのが作業の8割から9割ですよ」 雪子さんはそういって笑う。しかし、織ることに関してもかなりの技術が要求される。アットゥシカラペと呼ばれる織り機を使い、ひと織りひと織り丁寧に進めていく。撚る工程のみ機械を使うが後は全て手作業だ。アイヌの伝統的な織り方をそのまま継承している。「もう何百年も同じ織り方ですよ。前に全国の織り物の職人さんが集まる会に出席したけれど、今でもこんな織り方をしているのは、私だけでした」 木の皮の繊維を撚って作った糸だけあって、なめらかな木綿の糸などとは違い、扱いも難しい。からまったり、切れたりすることも多い。「でも、だから面白いんですよ。木の皮からこんな布ができるのって不思議でしょう?」 365日、糸に触らない日は無い。車に乗る時でも、糸を持ち込んで作業をしているという。

“糸が好きなんですよ。だからずっと触れていたいんですね”

伝統も風習も無くなってしまってからでは遅い

守さんが代表理事を務める二風谷民芸組合の組合人は現在23人。そのうち木彫りの職人は6人と、数十人いたという全盛期に比べるとずいぶん少なくなってしまった。他の伝統工芸同様、後継者不足は深刻な問題となっているのだ。「代々続いてきた伝統を残していかなければならないという気持ちはありますね。例えばイタの文様にも、一つひとつ意味があるんですよ。沙流川流域独特の文様であるモレウノカ(渦巻き)は風や波をあらわしていますし、ダイヤの形のシクノカは神の目、尖った文様のアイウシノカは草木のトゲなんです。基本的に魔除けですね。

“ただ見た目だけのデザインではなく、こうした意味まで理解して伝えていかないといけないんです”

職人の後継者がいなくなるということは、その文化が途絶えてしまうということだ。守さんは、祖母にアイヌの文化をあまり教えてもらわなかったことを後悔している。「お祓いとか弔いの作法とか、当時はおばあちゃんが何をやっているのか全然わからなかった。もっと聞いておけばよかったと思ったのは亡くなってからですよ。伝統でも風習でも、無くなってからでは遅いんです。残せるものは、何でも残した方がいいと思うんです」
雪子さんも、二風谷アットゥシ織りの伝承には積極的ではあるが、なかなか後継者は育たない。「これまで何十人と教えてきましたけど、今でもちゃんと織っているという人はほとんどいないんです。糸作りから全部手作業じゃないですか。大変なんです。一本は織り上げても、その後が続かないんです。よっぽど好きじゃないとできない作業ですね」

北海道に自生している楡科の木であるオヒョウ。この内皮の繊維からアットゥシはつくられる。何重にもなっている内皮を薄く剥ぎ、細かく裂いて撚っていくと糸ができていく。アイヌの人たちは“木は皮という着物を着て山で暮らしている”と考えていた
モレウノカ(渦巻き)やシクノカ(神の目)の隙間を埋めるようにラムラムノカ(ウロコ)を一枚一枚彫り込んでいく。このウロコを彫る作業がイタ作りの中でも、最も難しい作業だといわれている。その配置や彫り方のクセによって作家の個性が生まれる

新たな時代を迎えようとしているアイヌ伝統工芸

アットゥシ織りは大変だと言いながらも、雪子さんはこの作業を何よりも愛している。「毎朝、起きた時から、今日はどんな作業をしようって考えるんですよ。糸を染めようかとか、今日中に織り上げちゃおうとか。楽しくてしょうがないんです。アットゥシ織りは最初から面白いと思いましたし、今まで嫌になったことは一度もないんです。好きなことをやって、それでお金がいただけるなんて、本当に幸せですよ。でもたぶん、もしお金にならなくても、私は織ってるでしょうね。織るのが好きだから」 雪子さんはアットゥシカラペを操る手を止めることなく、キラキラとした表情で、そう語った。77歳となった今も、毎日休むことなく織り続けている。
二風谷の工芸作家の紹介を見ると、同じ名字の作家が多い。代々受け継がれてきた伝統工芸だけに家族や親戚の割合いがどうしても多くなるのだ。「でも、もちろん地元の人間でなければ継承者になれないなんてことはありません。現に全道アイヌ民芸工芸品コンクールで最優秀知事賞などを受賞している優秀工芸師の高野繁廣さんは東京出身です」

“やる気さえあれば、技術を身につけることはできると思いますし、歓迎したいです”

現在、二風谷地区では、大規模な市街地開発が進められ、新平取町民芸品共同作業場も新設された。野田サトルによる明治時代末期の北海道を舞台にした漫画『ゴールデンカムイ』のヒットにより、アイヌ文化への注目も集まっている。二風谷のアイヌ伝統工芸は、また新しい時代を迎えようとしているのだ。

日本で現役で使われている織り機としては、最も古い形を持っているといわれるアットゥシカラペ。構造は原始的だが、オヒョウの繊維からつくられた糸は扱いが難しく、スムーズに織るには高い技術が必要だ。雪子さんは1日1メートルほどのペースで織っていく
水の流れのように優雅にうねり、数字の“3”のような形状を見せているモレウノカは、アイヌ文様の代表的なモチーフだ。アイヌ語で「静かに流れる曲線」という意味を持っている。イタなどを彫るときは、このような型紙を使ったり、下絵を書いておいたりするが、実際はあまりそれにとらわれずに彫っていくという

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