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2020.01.27
肥前びーどろとは
江戸末期に佐賀県で生まれた肥前びーどろは実験用ガラス容器からスタートし、今や数十万円の値がついた作品も、出品した途端に売り切れるほどの高い芸術性を誇るまでになった。この肥前びーどろを今に伝え、かつ次世代に継承しうるのは、副島太郎さんが代表を務める副島硝子工業のみ。機械化がスタンダードの時世であえて手作りにこだわり、19世紀からの技法を頑なに守るその意義は、「伝統を継承する」の一言に集約されていた。
肥前びーどろ
佐賀市重要無形文化財に指定されている手作り宙吹きガラス食器の伝統工芸。かつては佐賀ガラスと呼ばれていたが、昭和初期に肥前びーどろの名で販売したものが定着し現在に至る。江戸時代末期から170年近く続く伝統を有しており、金型を一切用いない宙吹きという技法が特徴。なかでもガラスの竿を2本使うジャッパン吹きは、肥前びーどろならではの伝統技法である。
ライター 渡邉陽子

肥前びーどろのルーツは佐賀藩精錬方

副島硝子工業の店舗兼事務所には、ガラスの器やグラス、酒器などが棚にずらりと並んでいる。ロイヤルブルーが鮮やかな花瓶、繊細な流線形が圧巻のちろり、虹色が愛らしいグラス、艶のある赤が印象的な燗瓶……これらは全て肥前びーどろと呼ばれるガラス製品で、職人がひとつひとつ手作りで世に生み出しているものだ。
代表の副島太郎さんは1982(昭和57)年に3代目として家業を継ぎ、同時に日展作家としても活躍。毎年入選を果たし、肥前びーどろの高い芸術性を世に知らしめた。現在の工場(こうば)は息子の正稚さんが中心となって切り盛りしているが、副島さんの創作への意欲は今なお衰えを知らない。

肥前びーどろのルーツは、江戸末期の1852(嘉永5)年、佐賀(鍋島)藩10代藩主の鍋島直正公が設けた精煉方、今でいう理化学研究所にある。精煉方では迫りくる外国の脅威に備え、大砲を製造するために火薬や薬品の実験・開発を行い、それに必要な薬瓶やフラスコ、ビーカーなどをつくるため、当時では珍しいガラス窯が築かれていたのだ。開国後の精煉方は、ランプや食器をつくる精錬所という民間会社になる。そこから1903(明治36)年に独立して副島硝子工業を創業したのが、現在の3代目の祖父である。

販売を始めてから数年で、すっかり人気商品として定着した「虹色」シリーズ。5色の色の粒を使って虹を表現している。鮮やかで可愛らしい雰囲気とほのかに残る素朴さは女性からの評価がとりわけ高く、肥前びーどろの新たな定番となっている。

保存容器から伝統工芸品へ

副島さんは幼い頃から工場に出入りして仕事を手伝っていたが、「うちの仕事はいずれなくなるのでは」と、冷静に見ているところがあったという。
創業当時、ガラス瓶などの容器の需要は高かった。しかし2代目の時代になるとプラスチックが普及しはじめ、何よりガラス製品の製造がオートメーション化されて、安くて大量に生み出されるようになった。手作りしている副島硝子工業では、コストでも生産量でも到底及ばない。家業の未来は決して明るいものではなかった。
「それでも人手が足りないから手伝ってほしいと言われ、大学卒業後は家の仕事に就きました。とはいえ、私はつくる側ではなくもっぱら営業で外回りです。うちは大手ガラス会社の問屋もやっていたので、そちらを売ることでやりくりできていたんです」
しかしついに、2代目も工場を閉じる方向に動き出す。
「そんなとき、当時の工場長とふたりで飲んだんです。親父には言えなかったんでしょうね、私に『中学を卒業してから何十年もこの仕事一筋でやってきて、ようやく自分でつくりたいものがつくれるところまできたかなと思っていた。今までやってきたことは何だったんだろう』と。その言葉がガツンと刺さりました。このまま閉じるわけにはいかないと、初めて思いました」
その日以降、副島さんは工場に入るようになった。毎日ひたすらガラスと向き合い、技術を習得し、これまでの主力商品だった「保存容器としての実用品」から「芸術性の高い伝統工芸品」へと、つくり出すものをシフトしていった。その結果、肥前びーどろは佐賀市重要無形文化財に指定されるほど高い芸術性と技法を備えた工芸品に至ったのだ。

副島硝子工業のオフィス兼店舗。江戸末期、佐賀藩に設立された精煉方で製造された実験に用いるためのガラス用品は、昭和の時代に芸術性の高い工芸品となり、平成5年には佐賀市重要無形文化財に指定された。佐賀の誇る技術が今もここで生き続けている。

日本で唯一残るジャッパン吹き

肥前びーどろ最大の特色は、金型を一切用いずに形成する「宙吹き」という技法を用いてつくられる点にある。金型を使えば同じ形のものを均一に、そして手早くつくれる。しかしその手軽さを追求することは一切なかった。
手間も時間もかかる製法や職人に求められる高度な技術は、結果として伝統の継承を困難にした。時代に逆行しているともいえる「非効率性」「非生産性」に耐えきれなくなった同業者が撤退していくなか、副島硝子工業だけが残った。
「私たちの世界では『玉取り3年』と言われます。いたってシンプルな、けれど歪みのないしっかりとしたまん丸の玉をつくるには3年かかる、という意味です。2本のガラスの竿で形成するジャッパン吹きも、全ての工程をこなせるようになるには10年修業が必要と言われますが、実際は20年やってもできない人はできないんですよ」

冷えたガラスを暖める「てっぽう」と呼ばれる炉。金型がないので、ここにガラスを出し入れしながら形を整えていく。ほか、工場にはガラスを溶解する「本窯」やできあがったグラスを徐々に冷やす「徐冷窯」という計3種類の炉がある。

肥前びーどろで人気の燗瓶やちろりをつくるジャッパン吹きは6つの工程からなる。まずはガラス竿にガラスの原料を巻き付ける「玉取り」。次に表面を滑らかにする「リン掛け」。丸い形状になったガラスに息を吹き入れて大きさを整える「宙吹き」と、さらに、板を使って底の部分や取っ手の部分を形成するもうひとつの「宙吹き」。そしてジャッパン吹き最大の特徴である、2本のガラス竿を使って(二刀流とも呼ばれる)口の部分を付ける「口付け」。最後に口元の余分な部分をハサミで切り落とす「口落とし」。
燗瓶やちろりなら、まず本体をつくっておいて、注ぎ口の部分をバーナーで炙って口を取り付けるといった手法もある。
「実際のところ、玄人でない限り、ジャッパン吹きとの違いはそうそうわからないでしょうね」と言いながらも、副島さんはこの極めて難易度の高い技術を駆使してつくり続ける。

ガラスが丸くなったところで息を吹き入れ、大きさを整えていく宙吹きを行う。「実家に戻ったばかりの頃は何もできませんでしたが、徐々に自分の思い描いたものが形にできるようになると俄然面白くなりました。仕上がりがよければ喜びも倍増です」(正稚さん)
ガラスは粉末の状態で届く。これはグラスだが、口のある燗瓶などの場合はジャッパン吹きの技法が用いられる。オートメーションで大量生産される製品にはない、手作りならではの独特のガラスの揺らぎ。これこそ明治から令和へ受け継がれる伝統工芸の粋である。

たゆみない努力で受け継がれる伝統

幕末の佐賀藩は幕府から大量の大砲の注文を受けたり、日本で初めて製鉄のための反射炉をつくったりと、諸藩のなかでも群を抜く技術力を誇っていた。その中心に位置する精煉方で、初代が7~8歳の時分から働き、現在の副島硝子工業を創設したことに、副島さんは誇りを抱いている。当然、佐賀への愛着も大きい。
「精煉方は、当時の技術としては日本一でした。その技術を佐賀で継承しているという誇りはあります」
だからこそ、肥前びーどろは副島硝子工業で大切に継承されてきたのだ。
「それに佐賀は意外とおいしいものが多いグルメの穴場ですよ。佐賀牛だけでなく、有明海で獲れる“前海もん”と呼ばれる魚類もおすすめです。日本酒もいけますよ」
副島さんは、「理想のガラス器がどんなものかわかったら苦労しない。わからないからこの年になっても難しい」と思っている。同時に、「常に今以上の完成形を目指して取り組む」という思いでもいる。副島さん親子の「伝統を継承していく」という思いがある限り、佐賀が誇る肥前びーどろは色あせない。

大学卒業後、一般企業に勤めていたところを「人手が足りない」と父の太郎さんに請われ家業を手伝うようになった息子の正稚さん。「ガラスはもたもた扱っていると縮んで分厚くなってしまうので、いかにテンポよく作業できるかも職人の腕のみせどころです」

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