自分の牧場で育てた牛のしぼりたてミルクでつくるチーズ。原料の生産からチーズの製造・販売まで、全て自らの手で行っているのが『Grateful Farm』の松岡慶太さんである。そのおいしさは、牧場のある北海道浜中町が酪農に最適な環境であるといった地理的条件と松岡さんのチーズへの情熱、そして一切の妥協を許さない精密な作業工程から生まれる。珠玉のチーズはどんなところで、どのように生み出されるのか。道東の地へ足を運んだ。
チーズとはフレッシュまたは熟成した固形・半固形の製品であり、ナチュラルチーズは乳酸菌など凝固剤の作用により乳などを凝固させ、ホエイ(乳清)を部分的に除いて製造されたもの。ナチュラルチーズのなかでも熟成されていないものはフレッシュチーズと呼ばれる。プロセスチーズは原料となるナチュラルチーズを砕き、乳化剤を加えて再加工したもの。
「ここ、いいな」アメリカ放浪の旅から帰国後、バックパックひとつで日本を南から旅していた松岡さんがそう感じたのが、道東だった。北海道のなかでもとりわけ雄大な自然に魅せられ、まずは根室の牧場で過ごした。最初は次の旅に出るための日銭稼ぎのつもりが、次第に酪農に興味を抱くようになっていったという。
「元々アウトドア全般が好きだし自給自足の生活に憧れていたというのもあって、酪農もいいなと。なかでもチーズをつくりたいと思っていたとき、隣町の浜中町にあるチーズ工房で実習する機会を得ました」
浜中町は良質な生乳の生産地であると同時に漁業も盛んで、第一次産業が町の経済を支えている。霧多布湿原を筆頭に、道東らしいダイナミックな自然にもこと欠かない。
「海も近いし山菜もめちゃくちゃ取れるし、野生動物も鳥もたくさんいる。すっかり浜中町が気に入り、ここに定住しようと決めました」
数年間にわたる旅が終わった。松岡さんは浜中町で酪農ヘルパーの仕事を始め、この地で結婚し、家族ができ、そして2009(平成21)年に念願の牧場を手に入れる。農業者の減少を新規参入者の育成によって防ごうというJA浜中町の各種制度のおかげで、愛知県出身の松岡さんも離農して人のいなくなった67haの牧場を手に入れることができた。松岡牧場の誕生である。
「ここに来たときはぼろぼろの牛舎があるだけの状態で、今の自宅のある場所は森でした」
2016(平成28)年、松岡さんは自然との共生、もうひとつのライフスタイルを提言する『Grateful Farm』を立ち上げ、満を持して自社牧場のしぼりたてミルクを使用した手づくりチーズの製造・販売をスタートさせた。製造しているチーズは、数ヶ月熟成を行うゴーダチーズ、溶かして食べるラクレットチーズ、手でさけるフレッシュチーズのストリングチーズ、形状もユニークなカチョカバロ、ミルクの風味がそのまま味わえるモッツァレラチーズなど。 チーズをつくる工程は、どんなチーズでも途中までは同じだ。原料の生乳を加熱して殺菌した後40度前後まで冷却したら、そこにスターターという乳酸菌を添加する。1時間ほど発酵させて固め、牛乳プリンのような形状になったらカットして固体(カード)と液体(ホエイ)に分離させる。ここから先は、ゴーダチーズのように熟成させるか、あるいはモッツァレラチーズのようなフレッシュタイプかによって異なる工程となる。
「つくっていて楽しいのはストリングチーズですね。牛乳の風味がすごく残るので面白いんです」
一方、つくるたびに難しいと感じるのはモッツァレラチーズだそう。
「シンプルゆえにいじくりにくいんですよ。熟成ものってある程度時間が解決してくれるところがあるんですが、モッツァレラは一切のごまかしがきかない。牛乳の状態によって固さも色も変わるし。つくるのが大変で、モッツァレラからは手を引いてしまうチーズ工房もあるほどです」
牧場の一角に建てられたチーズ工房はカフェも併設していて、そこでチーズづくりの体験教室も行われている。大人だけでなく、浜中町内の小学校が課外授業で訪れることもあるそうだ。体験教室ではモッツァレラチーズづくりの工程にある、熱湯のなかでチーズを練るストレッチという作業を体験してもらう。最初はぼそぼそした形状だったものが、ストレッチしていくうちに見慣れたチーズへと変化していく様子は、なんともわくわくする。そしてできたてのモッツァレラチーズの、なんと美味なことか。
これほど極上の味を生み出す松岡さんは、あえて“理想のチーズとはこれ”と定めていない。
「そのために、誰がつくろうが決められた作業工程を厳守することにはこだわっています。理想の味を“これ”と決めて常にその味を追求すると、この工程のどこかを変えて対応することになりますが、それじゃ大企業にはかなわない。だからうちは、作業工程を変えないことで、そのときどきのチーズをつくろうと」
ではチーズづくりや酪農に向いているのはどんなタイプの人かと尋ねると、「いい加減な人」という答えが返ってきた。
「生き物相手だから、思い通りになんかいかないんですよ。右に行ってくれと思うほど牛は左に行くし。そういうときにいちいちカッとしてしまう人だと、牛もかわいそうですね」
浜中町で暮らし始めたばかりの頃、松岡さんが地域に溶け込むために心がけたのはただひとつ、“嘘をつかない”というシンプルなことだった。愚直なまでにそれを守ってきたことで、結果的に松岡さんは地元の人々から信用を得た。酪農ヘルパー時代にいくつもの牧場と関わったことで、信頼関係も構築された。日本中を旅してきた松岡さんは、北海道の人は底抜けにお人好しでいい人が多いと心底思う。
「浜中町の新参酪農家も、みんな『入りやすかった』と言ってます。以前は新規就農の会みたいなものがあったらしいけれど、自分の地区の人たちが受け入れてくれているし、そこで遊ぶほうが楽しいから、わざわざよそから来た人だけで集まることはないですね」
この土地に暮らして18年。浜中町に定住してから、松岡さんのなかには「世の中の役に立ちたい」という気持ちが生まれた。浜中町で数えきれないほどの親切を受け、数えきれないほど「ありがとう」と言ってきた。今度は自分が言われる側にならなければという使命感がある。浜中町の素晴らしさをひとりでも多くの人に知ってもらうためのアクションも、そこに端を発する。
「都会での生活や里山などでの田舎暮らしのほか、こういうスーパー僻地のような所でも楽しんで暮らしているということを発信していきたいですね。うちではこれをオルタナティブライフスタイルと言っています。『Grateful Farm』でチーズやグッズを販売するのも、発信する手段のひとつです」
こういう人がつくるチーズが絶品なのは、必然である。