更新日:2017.12.18  writer:盛林まり絵

100本なら100本、きれいに同じ形のものが作れないと。それができるのが職人。

楊枝職人
森 光慶(隆夫)(もりみつよし)さん
千葉県/君津市

楊枝の材料として伝統的に使われてきた、クスノキ科の落葉低木『クロモジ』。千葉県君津市の久留里で育つクロモジは日本一香り高いと称され、同地では江戸時代から楊枝づくりが盛んであった。久留里産の楊枝は『上総楊枝』と呼ばれ、江戸で流通する楊枝の50%以上を占めていたという。明治時代末期に細工楊枝を考案し、上総楊枝を『雨城(うじょう)楊枝』へ生まれ変わらせたのが、森家である。森家の技を伝承する森光慶さんの工房を見せていただいた。

雨城楊枝とは?

千葉県君津市久留里でつくられている、茶席や和菓子店などで人気の高級細工楊枝。一般的な使い捨ての楊枝と違い、洗って乾かせば何度も使うことができる。江戸時代に千葉県で武士の内職として始められた上総楊枝をルーツとし、千葉県の伝統的工芸品に指定されている。

江戸時代から続く久留里の一大産業

江戸時代に口内ケア用品として庶民の間に楊枝が広まり、一時は浅草寺の仲見世に約250軒もの楊枝屋が軒を連ねていたという。その需要を支えていたのが、房総半島の中央部にあった久留里藩(現在の千葉県君津市久留里)である。久留里藩の初代藩主・土屋忠直が楊枝づくりを奨励したのが始まりだ。
久留里産の楊枝は『上総楊枝』と呼ばれて人気を博し、最盛期には久留里を中心に約500軒ほどの楊枝を削る家があったという。大正時代には久留里産楊枝の年間総生産高は約2万円といわれ、現代の価値に換算すると約7千万円にもなる地域の一大産業であった。
この久留里の地で、100年以上に亘って楊枝づくりを続けているのが、森家である。森家の楊枝業を確立した初代の森啓蔵は人情に厚く、1923(大正12)年に関東大震災が起こったときには、同業者達が代金を取りはぐれないよう焦って動く中で、逆に見舞い金を持って行き「代金は急がなくていい」と復興に協力したという。このことが問屋の信頼を得て森家の名は大いに広まり、注文が増えていった。
だが機械製の安価な楊枝が普及し始めると、一本一本手作りする楊枝職人は次々と廃業に追い込まれた。二代目・安蔵は生き残りをかけ、小間物屋で目に留めた帯留めから着想を得た、何十種もの細工楊枝を考案。大量生産品とは一線を画す粋な楊枝として重宝され、高級品としての道を歩み始めることになった。
森家の細工楊枝は、1947(昭和22)年に森家を訪れた軍人の目賀田周之介により、久留里城の別名『雨城』にちなんで『雨城楊枝』と命名された。腕が良かった三代目・光慶のつくる雨城楊枝は雑誌『家庭画報』で紹介され、全国から注文が殺到するほど人気を博したという。三代目・光慶の次男として、1950年に生まれたのが森隆夫さんである。

右は江戸時代に森家でつくられていた約100年前の楊枝。右上が江戸版の歯ブラシ『ふさ楊枝』で、木の一方の先端を叩いて潰してふさ状にし、もう一方は角をとってある。当時は歯ブラシと舌ブラシとして大人気だったそうだ
雨城楊枝『竹のし』は、木片の一方を紙のように薄くなるまで削り、曲げて結う。丁度いい薄さに削らないと曲がらず、薄すぎると切れてしまうため加減が難しく、まさに職人技である。もう一方は程よい薄さに整えて仕上げる

副業で始めてのめりこみ、後継ぎを決意

子どもの頃は後を継ぐつもりはなかったが、名人と呼ばれた父が楊枝をつくる横で、端材から駒などを作って遊びながら、父の手元をよく眺めていたという。大学卒業後は金融機関に就職して結婚。30歳の頃に副業として楊枝づくりを始めたそうだ。「子育てで経済的に余裕がなくなり、親に相談したら材料を渡されて削ってこいと言われたんです。つくった楊枝を母に見せたら『こりゃうまい。これなら売れるよ』と褒められ、お金を払ってくれたので嬉しくなってね。でも、今考えるとお世辞でした(笑)。父と母は私に楊枝づくりをやらせようとしていたんでしょうね」
長年父を見続けて育ったため、イメージトレーニングは充分にできていた。元々楊枝づくりも好きだった。元来手先が器用で、木を削って遊び道具を作れるほど木の性質も熟知していたため、父のもとで修行を続けるうちにみるみる上達していった。そして43歳のとき、楊枝職人として生きることを決断した。「当たり前のことを当たり前に言えないサラリーマンの世界が苦手だったんです」

“木は素直で切れば切った通りになっていくのに、人間の世界は汚いな、と。このまま続けていたら根性まで腐ってしまうと思って辞めました”

その後、父の名を継いで二代目・光慶として楊枝づくりを続けつつ、後継者の育成にも力を注いでいる。

香気の特に秀でているものは、上総をもって最とする

雨城楊枝の材料となるクロモジは楊枝の代名詞にもなっており、爽やかな香りがあって硬く丈夫で、精油や漢方薬などにも使われる。楊枝を削りだすと上品な芳香が漂い、その薬効なのかどうか、森家の楊枝職人は代々長命だったという。地元の山に自生するクロモジを12〜3月頃に切り出し、日陰で1カ月ほど自然乾燥させたものを楊枝づくりに使用する。「江戸時代には『香気の特に秀でているものは上総をもって最とする』といわれ、久留里産の楊枝が最も香り高いとされていました。一般の楊枝の材料は白樺で使っているとふやけてきますが、クロモジは乾かすと硬くなり、ふやけない。いつまでも先は鋭い。使えばほのかな香りが楽しめ、見た目も美しく、薬効もあって、いいことづくめです」
雨城楊枝の香りがなくなってきたら、小刀などで少し削れば再び香り出す。「楊枝にも風情を楽しむ日本人らしさが表れているんです」
楊枝づくりに使う道具は、型(カタ)、ノコギリ、ナタ、小刀。型も小刀も森さんの自作だ。制作する雨城楊枝の種類に合わせ、型でクロモジのサイズを測ってノコギリで切断したら、ナタで数等分に割っていく。小刀で削って形を整え、細工を施したら完成である。完成までの手数が少ないほど美しい楊枝になるそうだ。「凝りに凝った一つのものをつくりあげるのは職人じゃないんです。芸術家ですよ」

“一つひとつ違う材料の癖を読んで、100本なら100本、きれいに同じ形のものが作れないと。それができるのが職人だと思います”

クロモジは削り立てが最上とされるが、常に用意するのは難しいので、色と香りが引き立つように使う前に水に浸して拭いてから使うのがおすすめ。水で洗って乾かせば何度も使える。乾かす際は直射日光でなく日陰で自然乾燥させること
クロモジの形状に合わせて様々な雨情楊枝をつくる。ミニサイズの『大通』は目立たずに使えるので落語家や舞妓などに好まれるお洒落な楊枝。使い捨てにするのが粋な使い方。ほかにも『梅』『うなぎ』など様々な種類がある

本気で学びたい人には一生懸命に教える

技術を磨くとともに、繊細な技巧を凝らした雨城楊枝をつくるのだからと美術館を巡って芸術作品を鑑賞し、お茶の席で使われものだからと茶道を習い、楊枝を極めるための努力は怠らない。
また、直接の後継者がいなかった森さんは、長年続いた雨城楊枝の伝統を絶やすまいと、弟子をとって伝統技術を教えてきた。今も森さんに師事する弟子が3人おり、過去には正式に許しを得て独立した人もいる。「本気で学びたいという人には、早く上達してもらおうとこちらも一生懸命に教えます。楊枝職人に向いているのは器用なだけでなく、根気がある人ですね」
しかし、森さんのもとに数回通っただけで勝手に商売を始めてしまった人が出たことが苦い経験となり、以前より教えることに抵抗も感じている。今後の弟子入り希望者への対応は検討中だ。それでも、より多くの人に雨城楊枝を知ってもらおうと、一般向けの実演会や講習会、制作体験会などは続けている。

“制作体験を楽しんでくれる人に教えるのは、こちらも楽しいんです”

後継者育成と同時に、良質な材料を維持していくことも大きな課題だ。土地開発の影響で久留里のクロモジが減少してしまったのだという。一定量の土地・収穫量の確保は急務である。

クロモジを山から切り出す時点で、どの種類の楊枝がつくりやすいかをイメージしている。雨城楊枝を好む人のなかには自宅の庭にクロモジを植え、来客があると香りを楽しんでもらうために枝を折り、和菓子に添えて出す人もいるそうだ
完成品はパッケージして販売する。額装した鑑賞用の雨情楊枝は、家を新築するときの欄間の飾り、料亭や寿司屋の開店祝いなどによく使われたという。和菓子の老舗・とらやがミッドタウンに出店した際は、お土産に使われたそうだ
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