更新日:2018.01.31  writer:安田理央

水晶彫刻は石がこうなりたいと話しかけてきた形を与えてあげる作業なんですよ。

甲州水晶貴石細工師
河野 道一(こうのみちひと)さん
山梨県/甲府市

江戸時代中期より技術を磨き続けてきた『甲州水晶彫刻』。繊細な美しさは世界的な評価を受けてきた。硬度の高い素材であり、加工は困難で高い技術が要求される。また、天然石を使用しているため同じものは二つとないという希少性も魅力である。現在、国内で本格的に手作りの水晶彫刻を手がけているのは甲府のみ。甲府水晶彫刻の重鎮であり、黄綬褒章受賞、現在の名工など数々の肩書をもつ河野水晶美術の二代目・河野道一さんに話を聞く。

甲州水晶彫刻とは?

水晶をはじめとする天然貴石を、技巧を凝らした彫刻と、入念な研磨技術によって芸術品として生まれ変わらせる甲州水晶彫刻。仏像や動物などの室内置物をはじめとし、ブローチや指輪などのアクセサリー、さらには茶碗やぐい呑などの食器に至るまで様々な製品を作り出している。1977年には通商産業大臣から山梨県で最初の伝統工芸品産業に認定された。

由緒ある水晶彫刻の歴史を受け継ぐ

千年前に御岳昇仙峡の奥地から水晶の原石が発見されたことから甲州の水晶産業の歴史は始まった。当時は原石をそのまま飾っていたが、江戸時代中期に京都より玉造り職人を迎えて、研磨技術を学んだことから、水晶彫刻が盛んになっていった。明治後期には足踏み式の機械が開発され、大正時代になると電動機器による加工が可能になり、水晶細工の可能性は大きく広がる。水晶は、甲府の産業として大きく発展していった。戦後には輸入が急増し、製品の8割が海外向けだったが、1970年代に起きたドルショックを機に国内向けに作られる割合が高くなっていった。1976年には通商産業大臣から伝統工芸品産業に認定された。
甲州水晶彫刻界の重鎮と呼ばれる河野道一さんは、戦前に設立された河野水晶美術の二代目として生を受けたが、もともとは家業を継ぐつもりはなく、サッカーに明け暮れる日々を送っていたという。「最初はお小遣いが欲しくて、工場を手伝っていたんですよ。でも、そのうちに水晶彫刻の面白さがだんだんわかってきた」父親は、好きなようにやれと言うが、技術を教えてもらえるわけではない。見よう見まねの手探りで覚えていった。
ある日、父親が完成した水晶彫刻を問屋へ持っていったところ、相手が少し値切ろうと探りを入れてきた。すると父親は「では、売らん」と言って、その彫刻を叩き落として割ってしまったという。「向こうは商売人だからこぎる(値切る)のが当たり前なんだろうけど、それが親父には許せなかったんでしょう」

“一ヶ月も二ヶ月もかけてつくったものでも、そうやって平気で割ってしまう。そういう気質は私にも受け継がれていますね”

「営業はしない」というのが河野水晶美術の営業スタイルだ。自分から買ってくださいといえば、値切りあいになる。しかし、その人がつくったものでなければならないと思われれば、そうはならない。完成した作品を見た発注主が、「この金額では申し訳ない」と料金を一割上げてきたこともあるという。

躍動感あふれるペガサスの紅水晶彫刻。後ろ足と尻尾だけで身体を支えさせるには、バランスを入念に計算することが必要になる。こうしたトリッキーな造形も、河野道一さん以前には、水晶彫刻では考えられないものであった
原石からどのような形を彫り出すかを決めて下絵を描いていく『絵付け』という作業。水晶などの原石は材質も均一ではないので、どこをどのように使うかを判断するには、豊富な経験と知識が必要となるため、最も難しい工程ともいえる

二つとして同じものがないのが水晶の魅力

水晶は二酸化ケイ素が結晶した鉱物で、かつては甲州の乙女鉱山を始めとして、いくつかの土地で産出されていたが、現在は法律で発掘が禁じられ、日本国内で水晶鉱山は稼働していない。100%輸入品となっている。「本当は国産の水晶が世界で一番質がいいんだけど、発掘の許可が出ないのは残念ですよ」
水晶の魅力は天然ゆえに二つと同じものがないことだと河野さんはいう。したがって、作り出された製品も世界にひとつしかない。「一つひとつ形も模様も違うんです。その景色(模様)をどう活かすかが一番重要なんですね。いつもは何とも思わなかった石なのに、突然ひらめくことがあるんです。石がこういうものになりたいと、話しかけてくるんですよ。私はそれをつくってやるんです。これがつくりたいからと合う石を探すんじゃなくて、石が求めてくるものをつくるんです」
そのため、ひらめかなければ石を何年も放置しておくことになる。また作業中でも、途中で寝かせることもしばしばだ。河野さんの工房には、作業途中の石がいくつも放置されて並んでいた。「むしろつくる時は、いくつも並行して作業するようにしていますね。そうしないと思考が固まってつまらないものになってしまう」
注文を受けてつくるものはともかく、自分の作品としてつくる場合は、完成まで何年もかかることも多い。制作に対するその姿勢は職人というよりも、作家や芸術家と呼ぶにふさわしい。

“私は、職人という言葉はあまり好きではないんですよ。作り手と呼んで欲しい”

作業をしているときの方が疲れない

河野さんが手がけるのは、水晶だけに限らず、翡翠や瑪瑙、黒曜石など幅広い天然石だ。工程はまず、石の形や模様を見て、何をつくるのかを決める『石取り』から始まる。経験とインスピレーションが必要なこの作業は、最も重要で最も難しいといわれている。続いて、原石を切断し、どのような形にするかの元絵を書き込む絵付けを行う。そして、その絵からはみ出ている部分をカットしていく『切込み』、絵にあわせて形を作っていく『カキ込み』と作業は進んでいく。それから研磨剤と電動の鉄ゴマで磨いていくのだが、粗いものから細かい物へと研磨剤と鉄ゴマは何段階にも変えていく。最後に光沢を出す磨き加工で完成だ。「この小さなぐい飲みなら、まぁ2日くらいでできるかな」河野さんがそう言うと、山梨県水晶宝飾協同組合の副理事を務め、自身も作り手である次男の誠さんが訂正する。「いや、普通の職人ならその3倍はかかりますよ。父が早すぎるんですよ」
この仕事をはじめて60年、78歳となった今でも、河野さんは毎日作業をしている。「作業するのが楽しいんですよ。(作業を)やっていると時間がわからなくなるんです。むしろ、休みの日の方が疲れますね」そんな姿を見続けている誠さんも言う。「父はどんなに忙しい時でも、思いつくと別の作品をつくり出したりするんですよ。ひらめいてイメージが湧いてきたら止まらなくなるみたいです」
石と格闘すること自体が、河野さんの生きがいとなっているのだ。

研磨機で高速回転させた鉄ゴマと研磨剤によって原石を削っていく。鉄ゴマの大きさは何百種類もあり、加工の段階によって細かく使い分ける。研磨剤も粒子の粗いものから細かいものへと変えていく。研磨機は昭和初期から使い続けている
自らも伝統工芸士である次男の河野誠さんは、ジュエリーブランドとのコラボレーションなど、道一さんのプロデューサー的な役割も担っている。「父の発想には、どうしてこんなことを考えつくんだろう、といつも驚かされますね」
摺加工の作業は常に原石を下においたタライの水で濡らしながら行う。どれくらいの力でどの角度で削っていくかは職人の勘に頼られる。高速回転する鉄ゴマに水晶を当てていくため、注意しないと怪我をしてしまうことになるのだ
紅水晶のぐい飲み。実際手に取ってみると、これが石でできているとは信じられないほどの柔らかでなめらかな感触に驚かされる。陶器やガラスとは全く違った質感と重量感が水晶彫刻品の魅力だ。一生使い続けたくなる逸品である

新たな発想が水晶の可能性を開く

甲州水晶彫刻の全盛期は1970年代。当時は甲府だけで職人の数は200人を超えたというが、現在は60人ほどに減少してしまっている。「これまで私たちは、外に向けてのアピールが足りなかったと思っているんです。でも、ワークショップなどをやると興味を持ってくれる若い人もたくさんいる。楽しいんですよ。やってみると、みんなハマるんです」
これまでに河野さんは、数々の新技術を水晶彫刻業界にもたらしてきた。今では当たり前になった水晶の接着も河野さんが開発した技術だ。「当時は、原石そのままでつくるのが当たり前で、『こんな貼り付けたものなんて邪道だ。客に売れない』と叩かれました」しかし、接着という手法を使ったからこそ、大きなサイズの水晶彫刻が可能になってのである。現在では当たり前の手法として定着している。
他にも、金箔で接ぐ、意図的にクラッカー(傷)を入れるなど、河野さんが編み出した新技術はいくつもある。「しかし私が思いつかないような、あっと驚くような新しい発想が欲しいんです。新しい血がこの業界にも必要だと思うんです」
長い歴史を誇る甲州水晶彫刻の未来のために、河野さんは後継者の育成にも強い興味を持っている。

“水晶には、まだまだ新しい可能性があると思っているんですよ”

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